聖火とともに生まれて
オリンピックの聖火と共に生まれて
1964年10月5日、東京オリンピック開会式の5日前に、私は生まれました。世紀の祭典をどうしても自分の母親に見せたいと、二人で上京した父が、国立競技場で見た聖火。ランナーの手から聖火台に移された瞬間、抜けるような青空に燃え上がった炎を見て感動した父が名付けてくれたのが「聖子」という名前です。
父は私を、オリンピック選手にしたいと本気で思っていました。スピードスケートという種目を選んだのは私ですが、「オリンピックに出るために生まれた」と聞かされて育ったので、オリンピックが何なのかわからないうちから、「聖子はオリンピックになる」と言って家族を喜ばせていたそうです。オリンピックというものが、おぼろげにわかったのが、小学校1年生の冬、テレビで札幌オリンピックを見た時でした。
自然や動物と一緒に生きてきた・・・それが、私の原点です。
私が生まれ育ったのは、北海道勇払郡早来町です。酪農の盛んな人口5000人程の小さな町です。私の実家も牧場経営で生計を立てています。冬の朝の寒さと窓ガラスに咲いた氷の花を今でも覚えていますが、子供のころは吹雪くと車が使えず、馬そりが唯一の交通手段になるような厳しい気候の土地です。
私の祖父・祖母は開拓農民で、きれいな水を求めてこの地に入り、荒れ地を耕して畑をつくり、日々の生活を一から切り開きました。昔は自給自足の生活。両親が子供の頃は、食べるものも食べられないということも珍しくなかったそうです。
私が子供の頃も、春にはセリやヨモギ、秋にはたくさんのキノコが食卓に並びました。両親は折に触れて、「生活とは何か」ということを教えてくれました。
「勉強しなさい」と言われた事は一度もありませんが、家事や牧場の仕事を手伝うのは当然のことであり、そのやり方を厳しくしつけられました。例えば、ご飯をよそった茶わんは必ず両手で手渡しなさいとか、食後の食器はすぐに洗って、でも音を立ててはいけないとか。牧舎の敷きわらの交換や、農場の野菜の間引きは、生きものの命を左右します。子供だからといって責任逃れは許されませんでした。
真剣に生活しなければ生きられない自然の中で子ども時代を過ごしたことが、私の人生の礎になりました。
スケートは本当に楽しい遊び
実家の牧場の中に周囲200メートル程の池があります。冬には凍って手頃なスケートリンクになるため、近くの守田小学校から授業で滑りにきていました。私は4人兄弟の末っ子ですが、姉や兄とは年が離れており、また人里離れた牧場なので、近所に同じ年頃の遊び友達はいません。小学生のお兄さん、お姉さんと遊べるのが嬉しかったのでしょう。よちよち歩きの頃から長靴で、スケートの真似をして、ついて回っていたそうです。
スケートや乗馬の手ほどきをしてくれたのは父ですが、最初のコーチは早来町役場に勤める雄谷彰さんです。雄谷さんは、近所の子供達にボランティアでスケート指導をして下さっていて、私は幼稚園から中学1年生までお世話になりました。成長に合わせて、その都度、本当にいいコーチに巡りあえたと思うのですが、雄谷さんは子供だった私に何よりもまず、「スケートは楽しい」と教えてくれました。
短い冬の日が傾くまで、くるくると牧場の池を回っていたスケートの楽しさが、私をアスリートへと導いてくれました。それを幸せだと思う反面、現代の「外で遊ばない子ども達」のことがとても気にかかります。
厳しかった父の教え
父親の夢がいつ自分自身のそれに変わったのか・・・よく聞かれる事ですが、知らず知らずとしか言いようがありません。父は本当に厳しい人でした。スポーツにしろ、家の仕事にしろ、子供だからという手加減はありませんでした。特に嫌ったのは、自分に嘘をつくことです。
ある時、父に「補助輪をはずしても、自転車に乗れるのか?」と問われたことがあります。私は乗れるかどうかわかりませんでしたが、思わず「乗れます」と答えました。しかし実際にやってみると、うまく乗れなかったのです。その瞬間、父は私を薄氷の張った池に放り込みました。乗馬にしても同じで、少し上手にできたからといって得意になっていると、父はいきなり馬にムチを入れます。私は跳ねる馬から振り落とされることがしばしばありました。
だから、そんな父から褒められると、子供心に本当に嬉しく思いました。例えば、スケートが早く滑れるようになったり、休まずに前の日よりも何周も多く滑ったりすると、笑顔で喜んでくれます。一生懸命やれば、ちゃんと評価してくれるのです。オリンピックを本気で目指すようになったのも、最初はそんな単純な理由の積み重ねからだったような気がします。
厳しい開拓時代を体験し、それを人生の糧としてきた父が、貧しさを知らない世代の私に敢えて教えたかったこと、それは忍耐や謙虚さだったのだと思います。親になり、子どもに厳しくする事の大切さを実感する今、父のようにできるだろうかと自分自身に問いかけながら答えを探っています。
「生かされている自分」を知ったのは、人生の恵み
冬はスケート、夏は乗馬や自転車と、自然の中でおてんばに飛び回っていた私にとって、最初の人生の転機となったのが、小学3年生の冬にかかった腎臓病でした。2ヵ月間の入院を余儀なくされ、丸2年間、スポーツを禁止されました。家族と離れての入院生活、つらい食事制限など、最初は泣いてばかりでした。
しかし、私のいた小児病棟には、ベッドから全く起き上がれない子、不自由な体に生まれついてしまった子など、しっかり養生すれば治る私とは比較にならないぐらい大変な境遇の子ども達が何人もいたのです。今でも忘れられないのは、自分と同じ3年生の友達が亡くなるときの言葉です。
「私の分まで生きてね、がんばってね」
小学3年生ぐらいで、どうしてそんな素晴らしい言葉が言えたのか、何と凝縮した人生だったのかと、今でも胸が締め付けられる思いがします。健康である事は何よりの幸せです。幸運にも生かされた自分は、その子達のためにも頑張らなければなりません。そういう思いこそが、いま、政治で福祉を目指す原点です。
母は人生の節目に大切な教えをくれました
腎臓の病気で入院し、泣いてばかりいた私に、母はこんな事を言いました。「神様は誰に対しても平等に、喜びと悲しみと、楽しさ、苦しさを与えてくれる。だから、最初につらいことや悲しいことを与えられた人には、後に喜びや楽しみがたくさん残っている。だから、今病気になってありがたいと思いなさい」そしてまた、こう諭してくれました。「悲しいとか苦しいとか思うときに、それをいかにしっかり受け止めて笑顔でいられるかが、人間にとって大切な事なんだよ」
オリンピックに限らず、家族の支えと協力が無ければここまでやってこられなかったと思います。昔を振り返って痛感することです。