政治家への道-葛藤と決意

もうひとつの夢

1995年は、1月17日の阪神・淡路大震災、3月20日の地下鉄サリン事件と、大惨事が相次ぎました。その前年にはいじめによる子どもの自殺が頻発し、誰の心にも、日本の国はこれでよいのかという思いが募っていたと思います。私はこの年7月23日、参議院議院選挙の比例区で当選させていただき、国会議員としての一歩を踏み出すことになりました。しかし「なぜ国会議員なの?」という質問を、今でさえ随分受けます。

その前年に富士急行を退社、自転車のプロ選手としてアトランタ五輪を目指していた私にとって、出馬のお話をいただいた時は、かなりの戸惑いがありました。けれども、長い間スポーツを頑張ってきて、スポーツの素晴らしさをもっと多くの子ども達に伝えたいと考えていましたので、どうすれば実現できるか、その方法を探っていたことは事実です。

また、病気やケガの際に出会った様々な境遇の子ども達への思いから、将来は福祉の仕事に就きたいと考え続けてきました。

私には、オリンピックが何かもわからないうちから「必ずオリンピック選手になる」と目標があり、それに向かって自分を追い込んできたという経験がありましたが、そのように思い返すと、「いつかは政治の道に」というのは、確かに一つの夢でした。

政治を身近なものと感じていました

父は、家庭の事情さえ許せば政治家になりたかったのだと聞かされていました。また義兄は当時荆議院議員をしていましたので、私にとって政治は遠いものではありませんでした。

オリンピックや世界選手権は、本来政治と最も遠い存在と考えられがちですが、実はそうではありません。転戦した競技場や選手村で、いつも世界の政治の動きをピリピリと感じていました。

私にとって政治は夢でもあり、身近なものでもありましたが、被選挙権を得たばかりの年に、出馬要請をいただくとは思ってもいませんでした。

「福祉はライフワークとしてやりたい。でもオリンピック出場の夢もある」あの時は本当に思い悩みました。

楽な立場に甘んじていては、道は開けない

その時、悩んでいた私に、母がこう言ったのです。

「人には、生まれながらに与えられた道というのがある。だから、いろいろと遠回りするかも知れないけれど、最後は必ずその決められた道に従って進むんだよ。病気やケガやいろいろあってもオリンピック選手になれたのは、それがあなたの道だったからだろう。その道が政治家に続いているのかどうかはわからない。でも、自分の道はこの世に生まれたときから決まっているのだし、できるなら、その道に向かって努力するほうがいいのではないだろうか」

真剣に福祉の仕事をやりたいと思ったのなら、楽な立場に身を置いてはいけないはずです。「私の分まで生きてね、頑張ってね」と言って死んでいった子どもに代わって、本当に私の命を福祉に捧げられるだろうか。捧げられるというのなら、それは宿命であって、楽な方に逃げることは許されません。

私は、自分にプレッシャーをかけないと力を発揮できない人間だと思います。病気やケガによって、命の素晴らしさを教えてもらったことも何か運命的なことのように思えました。一番厳しい選択ですが、福祉をより良く実現できるであろう政治の世界を目指そうと決めました。

そして、8月4日、初登院のときは、赤いじゅうたんを歩きながら責任の重さをひしひしと感じ、押しつぶされそうな気持ちになりました。同時に、いつまでもこういう初心を忘れずに、努力し続けたいと思いました。

両立することに意義がある

出馬に当たっては、アトランタ五輪を断念しないことを条件にさせていただきました。オリンピックはそれまで私の人生そのものです。途中でやめるなんて考えられませんでした。もちろん国民を代表する責任ある立場になったからには、議員活動を疎かにするつもりは毛頭ありません。

国会議員とオリンピック選手の二足のわらじを履くことについては、多くの意見が聞こえてきました。でも私は、現役の選手でなければ見えてこないこともあるし、それを国政に反映していくことこそ、自分の使命であると感じていたのです。

ところで、出馬要請をいただいた頃、会期中以外は充分にトレーニングの時間をとれるというお話でしたが、実際に仕事を始めてみたら、まるっきり違いました。朝8時から夜遅くまでいろいろな会合や勉強会がありますし、新米議員の私には勉強しなければいけないことが山積みです。中途半端は嫌いなので、議員としての活動を完璧にこなした上で、アトランタを目指そうと決意しました。

現役引退と葛藤

アトランタ五輪は議員になってちょうど1年後でした。練習は議員活動に支障が無いように、睡眠時間を削って行いました。午前3時に起きて自転車に乗り、8時には登院して、一日国会の仕事をし、夜に2時間のウェイトトレーニング。地方の講演会が多い土日は、移動に自転車を使って、トレーニングに当てるといった生活を繰り返しました。

しかし、現役の国会議員として出場したアトランタ五輪が、結局、私の最後のオリンピックになりました。選手としての限界を感じたというわけではありません。自分としては長野もシドニーも目指したいと思っていましたし、体力も情熱も十分にありました。

でも、政界からは「練習もしていない人が勝てるほど自転車界はレベルが低いのか」と言われ、スポーツ界からは「これだけの記録を出せるなんて、政界は仕事をしなくていいところなのか」と言われました。二足のわらじは両方の力になると信じていたのに、どちらの世界も傷つけていたのかと思うと、私自身も傷ついて、何かに負けたのです。

苦しんだ末に気づいたこと

自分のしたことは政界のためにも、スポーツ界のためにもならなかったのか?そう考えることは、本当に苦しいことでした。また、国会議員というだけで、陰で悪いことをする人間のように言われてしまう世間の風潮にも打ちのめされました。

そんな私の救いとなっていたのが、趣味の陶芸でした。週末に暇を見つけてはろくろに向かい、心のバランスを保ちました。いつか大好きなこの道に進めたら、どんなに幸せだろう・・・。想像の世界で遊びながら、よく心に問いかけたものです。そんなとき、長野五輪の資金に寄付しようと、かなりの数の作品を仕上げる機会があり、土日ごとに高取焼の窯に通いました。作品づくりに没頭し、10ヵ月がかりですべてを完成させたとき、わかった事があります。それは、陶芸の奥深さです。

それからは、ろくろを回すことがつらくなりました。

どんな世界でも、ただ「好き」だけでやれるものではない。努力を怠って逃げてはならない。どんな小さなことでもいいから、できることから積み上げていこうと、決意を新たにした瞬間でした。