東京五輪と健康促進
朝刊 2014/10/31 スポートピア
私の名前は、1964年東京オリンピックの開会式を見に行った父が聖火にちなんでつけてくれた。自分にとって初めての五輪体験は1970年の札幌冬季大会だ。
当時小学2年生だった私は、スキージャンプの笠谷幸生選手、金野昭次選手、青野清二選手の活躍に大いに刺激を受けた。掲揚台を独占した日の丸が風になびく光景に「自分もあそこに立ちたい」と思い、すぐに地元のスケート少年団に入った。小学3年の冬にはいい記録が出るまでに成長したが、ここから苦難が始まる。春先に突然、腎臓病を患って入院。2カ月で退院できたものの療養生活は2年も続き、スケートはもちろん、学校での体育授業でさえも禁じられてしまった。
本格的に練習が再開できたのは中学2年。親元を離れ、苫小牧市のコーチの自宅に下宿しながら高校卒業までの5年間、スケートに打ち込んだ。高校1年で世界大会に出場し、2年で全日本チャンピオンになった。夢に向かってまい進し、もう病気のことも忘れていた。
しかし、高校3年の秋に腎臓病が再発。練習できないことが苦痛で、将来への不安からストレスに押しつぶされた。胃に穴が開いて円形脱毛症になった。さらにストレス性呼吸筋不全症を発症し、自分の力で呼吸できなくなってしまった。
そのため、今でいう心療内科の治療が必要になり、当時の精神科病院に移された。不運なことに病院内でB型肝炎にも感染し、腎臓病と肝炎と呼吸筋不全症という三重苦に陥った。
精神的にも追い込まれていたが、体の不自由な子供たちとの出会いが悪循環を断ち切るきっかけになった。リハビリを通しての交流の中で自分の病気はもう治らないということを受け入れることができたのだ。そうすると心が軽くなって治療も進み、奇跡的に選手として復帰できた。
以来、病気を受け入れて共存しながら生きることを心がけてきた。健康体への憧れは強かったが、病を経験したからこそ夏冬7回も五輪に出場できたと思っている。
アスリートはドーピング検査があるために、日ごろから薬の服用にはことさら慎重にならないといけない。薬に頼らずに病気やけがの予防に努め、免疫力を高める体づくりをしている。そのノウハウは広く一般の方々の健康促進にも役立てるはずだ。わが国の財政は危機的状況にあり、社会保障改革と同時に健康寿命の改善に取り組まなければならない。
2020年東京五輪・パラリンピックはより一層、国民にスポーツを習慣づける機会になるだろう。アスリートも指導を通じて地域貢献し、生活の質を高め、医療費の削減につながるような好循環を実現したい。今も病気と折り合いをつけながら生きている私なりの理想である。
(日本スケート連盟会長)